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捕鯨論説・小説・絵本のサイト/クジラを食べたかったネコ

── 日本発の捕鯨問題情報サイト ──

(初出:2005/9)

クジラとバカの壁・・

ネコの洞察力に関する洞察

 クジラやイルカの知能・心理に関しては、多くの専門家の手で著されているので詳しい説明は省きますが、脳の重さ、神経密度、皺の多さからヒトに近い高度の知能を持つことが指摘されています。日本の捕鯨関係者は躍起になってこれを否定し、何かというとイルカ・クジラがバカであること、本能的であること、〝冷たい〟こと、などをしきりにアピールしたがります。情緒的動物観に支配されがちな日本人の特性からして、イルカ・クジラがタマちゃんのような人気者になる事態を憂慮しているのでしょうか? 「知能が高い者を殺すなというのはナチズムでけしからん!」と言ってる割には自己矛盾もいいところですけど。
 正直、筆者はクジラが頭がいいとはあまり思っていません。仮に頭がいいとして、それをもって別格扱いすることにも反感を覚えます(「だから殺せ」というのは輪をかけてオカシイと思いますが・・)。なかなかユニークな行動と社会を持つ哺乳類の一群として、ひどく興味を惹かれはするのですが、(ヒトを含む)他の哺乳類とそれほど異質とも思えないのです。
 例えば、大きな脳をもたらした要因の一つとされるエコロケーション。これはコウモリ類やウミツバメの仲間なども使っています。「能動的な感覚機能であるエコロケーションには高い情報処理能力が必要とされる」という主張には一定の説得力がありますが、結論を得るにはコウモリとの大脳生理学的な比較考察が欠かせないでしょう。なんていうと、クジラの賢さをヨイショしてるみたいですが。(でも、もしかしたらコウモリも相当賢いのかもしれないしニャ~……と思ってたら、コウモリの大脳神経密度はクジラ類に比べてだいぶ低いとのこと)
 随意的な呼吸浮上の必要からくる、脳を左右の半球で交替に眠らせる能力もかなり特異に見えますが、四六時中飛び続けているために、超短時間の断続的睡眠ですませている海鳥・渡り鳥のほうがむしろ不思議です。動物たちはさまざまな形で睡眠時間を確保したり短縮したり工夫を凝らしているわけで、自然の妙に感嘆するほかはありません。
 続いて、ザトウクジラでよく知られているところの歌について。地域個体群間の差異や時系列に伴う変化が見られることから、本能ではなく一種の文化であるといわれます。実は、鳥のさえずりも多くが、地域差や世代差など同様の文化的特性を有しているのです。テープを早回ししたら、似たような〝曲〟に聞こえるかも。クジラにしても鳥にしても、歌の行動的意味は繁殖に関わるなわばり宣言(メスの誘引とライバルオスの牽制)が主であると考えられます。海と空という環境に適応した鳥とクジラは、広い行動範囲と高い移動性を持つことから、こうした共通の社会特性が見受けられるのかもしれません。このような歌の存在は、ヒトを含む類人猿やニホンザル以外の野生動物にも、オスの創意工夫とメスのトレンドに左右されるミーム的行動が発展しうることをうかがわせます。
 水族館で多芸ぶりを発揮するイルカは、ハワイ大学の研究で文節構造まで理解できることがわかっています。知能水準でヒト上科(いわゆる類人猿)と肩を並べるのは確かなようです。ただ、言語理解という点ではヨウムはさらに上をいきそうですし、ボーダー・コリー(イヌ)の中にはヒトの3歳児並の言語理解力を示した子もいるとか。総合的な知力に関しては、カラスもゾウも負けてはおらず、ともに少なくとも数十の音声言語のボキャブラリーを持っていることが判っています。釣りを開発するササゴイも然り。ハマキアリだって昆虫にしてはスゴイ! 筆者はこうした並居る天才動物の一種にネコも推挙したいと思います。
 こう書いていくとクジラを貶めているようですが、要するに筆者が言いたいのは、クジラもヒトも突出して特殊な哺乳類ではないということです。「クジラは賢くない」「利口だからといってクジラを生かしてはならん」という主張の裏には、ニンゲンだけが特殊で、偉く、賢いんだという唯我独尊の姿勢が見え隠れしています。しかし、動物の一種にすぎないヒトと、クジラや他の動物たちとの間に壁はありません。〝バカの壁〟が立ちふさがっているのは、あくまでヒトとヒトの間の話。バカだろうと天才だろうと、殺さないに越したことはないですよね──。

 頭のよさもさることながら、イルカがしばしば見せる利他行動についても、多くの書籍に書かれています。いわゆるヒトやイルカを背中に乗せて助ける行動ですね。中でも捕鯨関係者の記述には、さまざまな観察事例に対し、「習性」の一語で説明をつけたがる〝習性〟があるようです。「本能」と同じくらい好きな言葉のようですね。生得的行動は融通が利かないものなので、多くの動物は後天的学習によって補正しており、本能・習性の一言で片付けられるような単調な行動は、実際のところほとんどお目にかかれないのですが……。イルカの搬送行動に関しても、本能であれば、個体や状況による大きな差異は存在しないはずです。
 溺れかけていて、あるいはサメに襲われたところを助けてもらったヒトにしてみれば、イルカの救助活動に生得的な部分がどれくらい含まれていようと、命の恩人(鯨)として感謝するのは、ヒトという動物らしい感情だと思います。一方で、「あれはイルカがあんたを助けようとしたわけじゃないんだ。機械的にやったことなんだ」と、なんとかしてイルカへの好感ポイントを減らすべく言葉を尽くしてけなす人たちの主張には、イルカに恩を感じている人たちに対する冒涜の意味も含め、非人間的・非動物的なものを感じずにはいられません。まるで機械のように。
 実際には、野生動物、飼育動物問わず利他行動(血縁個体の利益を優先する定型的行動ではなく、非定型的な行動)の事例は普遍的に見られます。きっとイルカは、ヒトや、サルや、イヌや、ネコや、ウマや、ゾウや、ライオンや、カバその他の動物と同じく、情に厚いのでしょう(個体によるでしょうけども)。みんなルーツを同じくする哺乳類なんですから。

 この文脈でよく取り上げられるもうひとつの話題がイルカ・セラピー。これはイルカ(多くは飼育個体のようですが)と一緒に泳ぐという心身障害児・者、精神病患者の治療法で、劇的な効果をあげていることで知られています。一部の捕鯨擁護派は、イルカが出すのと同じ周波数の音波発生装置を開発すればすむ話だと(だから、殺し続けるべきだと)いうのです。
 そうした主張に対し、筆者は激しい不快感を禁じ得ません。筆者はイルカのセラピストとしての〝腕〟がイヌやネコのセラピストより上だとは思わないのですが、イルカで癒されるヒトが、機械で癒されることは絶対にないということだけは断言できます。イルカやイヌ・ネコたちに代わる効果をあげられる機械など何年経とうと開発されやしません。ヒトのセラピストに代わるロボットが開発されえないのと同じく。同じ周波数の音波を出すだけのただの機械で治療できるのは、心を持った社会性動物であるヒトに属さない、血の通わない機械のような人間だけでしょう。
 セラピーを受けているこどもたちが、いまもなお世界ではイルカやクジラが殺され続けているという事実を知ったなら、間違いなく心に深い傷を負うことでしょう。その意味で、商業捕鯨の継続は非人道的行為にほかなりません。などと言うと、戦争をはじめ「非人道的行為はいくらでもあるからいいんだ!」という言い訳をする人も出てきそうです。「他の家畜も殺しているんだから」「他の野生動物も殺しているんだから」「他の自然も壊しているんだから」とまったく同じパターン。そうした非人道的行為の加害者への公平性の配慮を重んじる主張からは、どのようにして戦争を減らし、あるいはなくしていくかという前向きの発想は微塵もうかがえません。つまり、戦争・差別・自然破壊・動物虐待等々、それらすべてを現状のまま容認する〝口実〟であり、何もしないことを正当化する自己防衛のための〝合理化(防衛機制)〟にすぎないのです。ニンゲンとはなんと(狡)賢い動物なのだろうと、嘆息するばかりです。でも、殺す言い訳をひねくり出すのに頭を使うのって、はたして〝知性〟といえるでしょうか──?

《参考》
 『水辺で起きた大進化』(カール・ジンマー著、ハヤカワ)
 『動物は何を考えているか』(D・R・グリフィン著、どうぶつ社)

──ネコの洞察力に関する洞察──

「ネコは(イヌより)頭が悪い」と言われることがあります。「迷路学習の成績はネズミにも劣る」とまで言われたり・・。けど、そんなことはないニャ~!(なんていうとネズミには失礼だけど) ネコは本当に頭がよいニャ~!!
 例えば、ドアを勝手に自分で開けてしまうネコは世に広く知られていますが、これぞまさに彼らの知性の証といえましょう。後肢立ちしてノブを押下する動作は、単なる模倣やでたらめな行動からは決して発生しません。意味もなく人間をまねて立って歩くネコはいませんからね。つまり、ネコたちは人間の行動をつぶさに観察し、ドアの開閉機構とノブの操作の関連性を見抜き、自らが室外に出るという問題解決のために応用しているのです。自由への欲求、ストレス、記憶の整理と検索・洗い出し、推理・洞察、意思決定、そうした一連の諸相が、この一見単純に見える何気ない行動にすべて含まれているわけです。
 これに関連して、筆者はある実験をしてみました。開き戸式の窓を開ける能力のあるチャミちゃん(♂)という子がいまして、いつも右側の窓を開けていたのですが、そちらを固定して反対側しか開かないようにしてみたわけです。3日かかりましたけど、試行錯誤のうえ、チャミちゃんはなんと反対側の窓を開けるのに成功しました。右開きと左開きとでは、窓のスライドする方向が反対であり、それに合わせて身体の向きや利き腕を動かす方向も変えてやらなくてはなりません(もっとも、チャミちゃんは窓を開けても、ただぼんやり2階から外を眺めるだけなんですけどね)。
 固定された窓の解除の試み、努力を放棄する"見切り"の判断、別の解決方法の模索、窓・壁の構造に対する理解・パターン認識、自分はいつも使わずヒトも普段滅多に開かない反対側の窓に関する記憶検索ないし類推、どのように動くか? またそのためにはどのように力を加えればいいか? という課題設定とその解決のための試行錯誤・ひらめき──こうした一連の働きが、3日間のチャミちゃんの脳の中で起こっていたわけです。
 実験をしたのは、筆者が10匹のネコたちにお世話になっていたときなのですが、ドア(開き戸式及びハンドル回転式)開けの技術を持っていたのは、このうち4匹ほどでした。じゃあ、残りの子はそこまで知恵が回らなかったのか、というと……閉められた部屋から出たいときなどは、ドアの前に列を作ってしゃがみこみ、"ドアマン係"が開けてくれるのを待っていたのです。したたかというかちゃっかりしてるというか。自力で出る必要が生じれば、さらに何匹かはきっとドア開け能力を自分で獲得したことでしょう。
 ネコはイヌのように芸をしませんが、このように自ら設定した課題をこなす能力には実に目を見張るものがあります。まさにイルカやチンパンジー、カラスにも劣らぬ洞察力といえます。社会性を考慮するなら、ネコに座布団1枚追加しなきゃいけません。ネコはかくも天才なんだニャ~!!
 まあもっとも、動物園でドアを開けて脱走するコアリクイや、防寒のためにドアを"閉める"サイなんかもいたり……。みんななんて天才なんだろう!と感嘆してたら、先日TVでなんと鍵を開けてしまうニャンコまで登場しててさらにビックリ! 「ドアを開ける」ために「鍵を開ける」という、思考の階梯をさらに一段昇る形ですが、ネコたちにとってクリアできない障碍ではないようですね。筆者なんて、言語を社会的に習得させられていなかったら自分で思いつけたかどうか、正直自信がアリマセン。やっぱり座布団5枚あげたいニャ~♪

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