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捕鯨論説・小説・絵本のサイト/クジラを食べたかったネコ

── 日本発の捕鯨問題情報サイト ──

(初出:2007/11)

捕鯨と科学と価値判断

殺す〝べき〟かどうかって、科学が決めること?
年金記録問題、原発の耐震性、そして薬害肝炎からクジラへ──

Y2Kとクジラ

 西暦2000年を前に、Y2K問題が持ち上がったときの話。実は、筆者はそのころクジラと無関係な某IT企業に勤務していました。当時は、国際経済がマヒするだの、核ミサイルが誤発射するだの、いろいろな噂が飛び交い、一種世紀末のパニックじみた様相を呈していたものです。しかし、実際に蓋を開けてみると、大惨事が起きて文明が終焉することもなく、平穏無事に年を越し、すんなりと非常事態を乗り切れた──と、みなさんは感じたことでしょう。1、2年のうちには、巷でこの話題が上ることもなくなりました。
 もっとも、IT業界周辺がこの件で右往左往し、顧客対応・システム改変に忙殺されていたのは事実です。あまり表沙汰にならない小さなトラブルが処々で発生していたことも。
 世紀をまたいで2週間ほど経った日。チラチラと情報が耳に入ってはいましたが、筆者も身近なところでY2Kの実害に出くわしました。某システムにて、ホームページを更新したはずなのに、ブラウザ上では旧い日付のまま表示されるとの通報が。調べたところ、インターネットサーバーに入っているプロキシ管理用のフリーウェアが原因らしいことが判明。1999年以前のコンテンツを2000年以降アップデートした場合、"modified"と認識されないという、まさにY2Kの典型的な症状だったのです。結局、当面は毎日キャッシュデータをクリアしつつ、最終的に対応パッチを充てることに。この例だけでも、いくつもの興味深い問題が浮かび上がってきます。
 上記のケースでは、前年中に顧客と連携のもと、それなりの金もかけて模擬テストを行い、テスト中の障害に見舞われながらも、コンティンジェンシー・プランまで作成して、越年時の体制も準備万端整っていました。実は、テスト前の調査の段階でも、当のフリーウェアが"Y2K ready"でないことはわかっており、運用上の対策で回避する手はずになっていたのです。更に、サイト更新に支障が出る可能性も若いSEから指摘され、該当パッチも前年の時点でボランタリーに提供されていました。当のシステムベンダーは世間的な信用も厚く、技術力に関しては高い評価を得てもいました。にもかかわらず、障害としては些細なものとはいえ、結局実際に不具合が生じるのを防ぐことはできなかったのです。
 ことは人系ミスと一括りにしてしまえるほど単純ではありません。まず、事前に指摘があったにも関わらず、完全に対応済のソフトと入れ替える等の措置をとらず、運用でやり過ごそうとしたのはなぜでしょうか? 基本的には〝お金の問題〟なのです。たとえ商用ソフトのバージョンアップをせずにフリーウェアで済ませたとしても、広域WANの各拠点に置かれたサーバーに対して導入・展開・設定作業を行うとすれば、単価の高いSEの人件費などの経費はバカになりません。一方で、Y2Kの対策自体が、IT導入で市場競争力を高めるといった前向きの要素のない、〝後ろ向きの作業〟でしかありません。当然ながら、顧客はコストをかけることに強い難色を示します。もともと半端でない投資をしてきたところへ、「〝年を越す〟のに金がかかる」といきなり言われれば、納得がいかないのも道理でしょう。結局、限られた予算の範囲で可能な限りコストを浮かせることが最重要の要件となり、選択肢も絞られたというわけです。
 次に、テストをしておきながら、なお問題が起こるのを防げなかったのはなぜでしょうか? そもそも、完全なテストというのはありえません。大規模なネットワークシステムを仮定した場合、そっくりの環境をシミュレーション用にもう1個作るなんてことはバカげているわけです。結局、システムを一定期間停止してテストするわけですが、そこでまた金の話が絡んでくるわけです。現に稼働中のシステムを止めるとなると、テスト期間中の損失は避けられません。テストがうまくいかなかったり、あるいは何かの拍子で大規模な障害が発生すれば、その影響は顧客の事業に跳ね返ります。そうしたリスクを回避するためには、最小限のリソースを使って最低限のテストをやるしかないわけです。ネットワーク上の各機器で日付の設定を変更し、また復元するのは、きわめて慎重さを要する作業で、それだけでもコストがかさみます。テストの中味は、メールの送受信や重要な定型業務等に絞って、リストに載っている危険日毎に確認するのが精一杯。それで、プライオリティの低い適宜のサイト更新に係る不具合が見過ごされてしまったわけです。
 さらに、1つのシステムには大勢の人間が関わっており、導入当時の担当者を探し出すのにもワークロードがかかるほど。コンマ2桁目のバージョンが不明だったり、「あそこのネットワーク機器には管理ソフトが入っていたんだっけ?」という誰かの一言で、仕様書・設計書を片っ端から引っ繰り返す羽目になったり、一筋縄にはいかなかったのが実状です。あるシステムで使われているすべての製品に関し、一つ一つ履歴を含めて追いかける余裕など、社内の誰もなかったのです。
 おそらく、同レベルの小さな問題は方々で発生していたに違いありません。ついでにいえば、云百万円単位の製品やシステムをお客に売り込む当のIT企業では、自社内の業務は割と旧態依然としたシステムを使っていました。同様にリエンジニアリングになるべく金をかけず、原始的な方法に頼っている企業も多く、表沙汰にならないトラブルの件数は公になっているものの比ではなかったでしょう。
 そもそもインターネット自体、主体的に情報を発掘することが求められる世界ですから、誰かがフリーで提供してくれてる便利なソフトに対し、同じく善意のユーザーがパッチを考案したといった場合、「見つかればラッキー」というレベル。情報が交錯する中、「まあ8割方は大丈夫だろう」という程度の判断しかできないわけです。それ故に、ホームページの対応製品・サービス紹介では「責任は負いかねます」というメーカーの一言が必ず最下行に付け加えられていたり、米政府が「内容が間違ってても免責する」という条件で企業に関連情報公開の通達を出したというのが、Y2K問題の真相だったのです。
 もう一つ、他社から聞いた同様の事例を紹介しましょう。当時まだ多用されていたNetscape、JustView、バージョン5以前のIEなどの旧いブラウザで見ると、サイト上の日付が「1900年」と表示されてしまうケースが明らかに。サイトではJavaScriptのバージョン1.3から新しく追加されたメソッドで日付データを処理していましたが、下位バージョンではその動作が保証されていませんでした。一方、各ブラウザは1.2以下のJavaScriptには問題なく対応していました。どちらもY2K対応という観点からは、バグや対応漏れはなかったのです。サーバー・サイドとクライアント・サイドの不整合の結果発生した問題で、ブラウザと開発言語のどちらの責任ともいえないわけです。こういう場合、Webサイトの管理者側が推奨するブラウザのバージョンを明記する等、運用で解決する以外に打つ手はありません。いずれにしろ、こうした瑣末なケースまでテストで未然に発見するのは、どれほど優れた技術者でもおよそ不可能なことです。問題そのものは決して技術的な難度が高いわけではないにしても。
 さらに、その後発生した閏年絡みの2/29問題の方が、Y2Kそのものより深刻な影響が現れました。「油断した」「気が抜けた」というのが、当時担当したプログラマーやSEの感想。しかし、それは個人の気の緩みに還元できるものではなく、むしろ業界・システム・社会そのものの気の緩みに起因していたというべきでしょう。一方、Y2Kが大きな問題として浮上してきた背景には、当時は高価だったメモリを節約するなど、旧式のシステムを予想以上に長持ちさせ使い回してきた〝合理的な知恵〟が裏目に出てしまった面もあります。当面の問題を処理することを優先したが故に、将来起こりえるトラブルの予測までできなかったともいえます。他にも、「和暦じゃなしに西暦を使うからだ」、「西洋文化の盲点だ」等々、とある人たちにそっくりなトンチンカンなことを言い出すヒトたちもいましたけど……。
 Y2K問題は、科学技術文明とそれに依存する社会の弱点・限界を改めて浮き彫りにしました。この間、多くの関係者が不眠不休で作業にあたりました。ただ、大規模な停電が起きたり、飛行機が落ちたり、核ミサイルが飛ばされたりといった大事に至らなかったのは、コンピューターシステムの抱える、ちょっとしたきっかけでダウンしてしまう〝脆さ〟と、ニンゲンの側の種々の手違い・行き違い・勘違いを吸収してくれる〝タフさ〟のうち、後者の利点が勝ったからといえるでしょう。要するに、〝運〟がよかったということです。
 スピードが早くトレンドが目まぐるしく移り変わるのが、IT/情報技術とそれを担う業界の特性です。エンジニアやプログラマーたちには問題解決能力にかけて他分野の純粋科学者を凌ぐ方々が大勢いらっしゃいますし、またそうしたスキルがシビアに要求される世界でもあります。その彼らの中に、ITが〝万能〟であると考えている者が1人でもいるとは、筆者には思えません。不測の事態に備える気構え=〝危機意識〟こそあれ、「すべてが予測の範囲内だ」「120%信頼していい」などと吹聴できる技術者など、1人もいないはずです。本音にあらざる顧客へのセールストークは別にしても(ユーザー側もそれを額面通りに受け取ったりしないと思いますけど・・)。免責事項がズラリと並ぶ契約書を読めば一目瞭然、法的な責任を可能な限り回避しようとするのがITベンダーの特徴でもあります。
 さて、みなさんはそれぞれ、ご自身の専門分野をお持ちでしょう。〝対象〟を完全にコントロールできると自信たっぷりに言いきる人物を、あなたはその道の第一線のプロフェッショナルとして認めることができますか? そのジャンルが発展途上のものでなく、完全無欠だと胸を張ることができますか? そのような主張が大手を振って罷り通るような分野があったとしたら、むしろ〝未熟〟さを感じませんか──?

殺す〝べき〟かどうかって、科学が決めること?

 私たちは、ニンゲンの文明が自己と地球とを完璧に管理する能力があり、だからこそ世界がうまく回っているのだと思いがちです。しかし、そうしたオプティミズムの一方で、失敗と試行錯誤の連続、予測もしなかった突発事に見舞われながら、たまたま〝運〟にも助けられ、きわめて危ういバランスの上に現在の科学工業文明・社会システムが成り立っているにすぎないという見方もできます。そして、現に綱渡りの〝綱〟を踏み外した結果を、私たちはいくつも目にしてきたはずです。原発や航空機など工学系の事故、ニンゲンが新たに生み出したフロンや農薬などの化学物質の環境中における予想外の挙動、移入動物による生態系の撹乱、そして薬害──。
 しかし、問題が発覚した後は、「当時の科学水準では予測不能だった」というお決まりの弁解のみで、科学者・学会が保障し、責任をとることはありません。科学とは、決して中立公正なものではなく、常に社会・経済の流れに翻弄されており、そうした過程を経て築かれた組織的体質・エゴとも無縁ではありません。そのことは、商業捕鯨の乱獲よる生態系破壊に対して無力だった──むしろ荷担したとすらいえる日本の鯨類学者・学界が何よりも如実に示しています。
 科学の抱える問題については、原子力資料情報室の故高木仁三郎氏を始め、内外の多数の知識人がこれまで繰り返し指摘してきました。そして、一般市民やメディアも、総論において、また他の分野に関する限り、科学に功罪があるということ、それを過信することの怖さについて十分認識できていいはずでした。しかし、ことクジラに関してみる限り、そうした〝罪〟の側面に対する批判・検証作業がすっぽりと抜け落ち、捕鯨サークルの科学万能論のみを鵜呑みにする日本人があまりにも多いことに、筆者は戦慄に近いものを覚えます。彼らは、まるでゲームの中の仮想空間のような、無邪気な科学的ユートピア世界を夢想するかのようです。南極の自然も、現実世界も、ITの世界でさえ、決してそんな甘いものではないのに……。
 科学の全否定か全肯定か、そうした二者択一に意味はありません。しかし、自らの限界を自覚できない科学こそ恐ろしいものはありません。RMP/RMSも、鯨肉トレーサビリティー・システムも、それが実際に機能する、うまく運用されるということを、筆者は信用することができません。彼らが「問題ない」と胸を張れば張るほど。
 科学者には社会的責任があります。捕鯨という形で野生動物を殺して利用するという選択をある国が下した場合、「これ以上捕ったらヤバイ(絶滅する/生態系が乱れる)」ときちんと警告するという。かつて鯨類学者はその責任を果たそうとしませんでした。それは間違いなく、彼らの無能さモラルの低さが原因だったのです。捕り続ける過ちを押しとどめる能力と意志を発揮しなかった無責任な日本の鯨類学者たちが、なおも捕り続けることに太鼓判を押したところで、科学のお墨付きを得たなどとは到底認められません
 そうした前提のうえでなお、強調しておきたいことがあります。科学者が最終的なゴーサインを出す、「科学がすべてを決める」というのは大きな過ちです。原爆を投下するかどうかを、マンハッタン計画に携わった核物理学者のみに委ねてしまうのと同じことです。
 「クジラを、野生動物を、自然を、どのような形で利用するか、しないか」は、私たち一人一人が自分自身の頭で考え、判断すべきことです。そして、最低でも南極圏、公海上に関しては、個々人の考え方の総意として国際社会が結論を下すべきことです。その価値判断に科学が入り込む余地などありません。科学の役目は、求められた場合にアドバイスを与えるだけです。
 科学の抱える問題点をしっかりと認識したうえで、野生動物の絶滅、汚染、地球温暖化等々、諸々の問題を生み出した反省を、将来のために活かさなければ、健全な地球環境は決して未来の世代のこどもたちに残すことはできません。
 この価値判断の中には、以下の4つが含まれるでしょう。

  1. クジラもしくは野生動物を、あくまでも殺して消費的資源として利用する。
  2. クジラを生かしたまま非消費的資源として利用する。
  3. 自然環境の一部としての〝野生動物の存在そのものの価値〟を次代に伝えるべき遺産として認める。
  4. 動物(ヒトを含む)の生命と自由を尊重する。

 1と2には、その社会的・文化的・経済的価値がどの程度のものかという判断が含まれます。1には、原住民生存捕鯨のスタイルから南極海に母船団を派遣する企業的商業捕鯨まで幅があります。筆者は日本人の1人として、日本の現行の商業捕鯨はおそろしく価値が低いと考えていますが。
 3、4はまだ新しい価値観ですが、日本でも徐々に浸透しつつあります(クジラ以外に関する限り)。筆者自身はこの2つを擁護する立場です。
 1~4がどの程度並存可能かも、考慮の余地はあるでしょう。1とそれ以外、とりわけ3、4との〝共存〟は一部を除いてかなりハードルが高いと思いますが。
 筆者にとっては残念なことですが、政府の立場とマスコミの宣伝のために日本国内においては1が幅を利かせています。しかし、国際社会はいま、明らかに2が主流です。日本が札束外交で確保した捕鯨支持国の中には、公海・南極海でクジラを消費的資源として利用している国は1国もありません。
 補足しますが、ここでも科学の是非論と同じように、オール・オア・ナッシングの議論は無意味です。クジラ以外の他の野生動物、他の生命、他の環境問題に関心のある方は、どうぞ自分のやるべきことをやってください。捕鯨談義にかまけている暇など微塵もないはずです。もっとも、「すべて生かそう」という意見と、「いや、絶対に殺しを減らすな。何もかも殺す方に合わせろ!」という意見が仮にあったとすれば、筆者は前者より後者の方により身の毛もよだつ恐怖を感じますが……。その意味では、捕鯨というテーマはまさしく、私たちの社会が犠牲をできる限り減らしていく方向へ進むのか、それとも無思慮に殺しを増やしていく方向へ進むのか──ということを問うものだといえましょう。
 あなたの考えはどれに該当しますか? 科学者の言葉を〝参考〟にするのも結構。でも、最後はあなた自身の頭で、心で、判断してください──。

年金記録問題、原発の耐震性、そして薬害肝炎からクジラへ──

 2007年、科学技術が抱える問題とそれが私たちの社会に及ぼす影響について端的に示す2つの大きなトピックがありました。1つは、社会保険庁の年金加入記録の不備問題、そしてもう1つは7月の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発が被った被害です。
 まず大きな政治の争点となった年金加入記録問題ですが、筆者にとっては割と身近な話で、名寄せが不可能なことはマスコミで取り沙汰される以前からわかりきったことではありました。原本管理のずさんさもさることながら、大量の記録が不備のまま放置された背景には、まずシステムの一元化を拙速に進めようとしたことがあります。 データ入力はOCRを併用しても基本的にオペレータの手入力という人力作業に依存せざるを得ないわけですが、データの同一性をどの程度保つかによって時間とコストは大きく変わってきます(反復・人足数を割り増したり、ベリファイ・システムを構築するなど)。システムの担当者/ベンダーはそこに大きな問題が潜んでいることにきっと気づいていたでしょうが、上の要求に逆らえず、膨大なデータを期限内に処理することを優先したため、整合性が犠牲にされたのでしょう。
 中越沖地震で想定を越える揺れが生じたため、柏崎刈羽原発が停止し、火災や大気・海水中への放射能漏れが発生した問題にも、上の社保庁の年金管理問題と非常によく似た構造が見られます。海中の活断層の存在を無視し、設計時の耐震性を甘く見積ったことが先の事態を招いたわけですが、ここにもコストの問題が絡んでいます。静岡の浜岡原発では、今回の中越沖を数段上回るM8クラスの東海地震に耐え得る耐震設計が施されているはずで(電力会社の説明を信ずるならば・・)、〝活断層列島〟日本の全国各地の原発で同じ強度の設計がなされていれば、今回のような大きな被害は防げたハズなのです(電力会社の説明を信ずるならば・・)。東海から離れた日本海側の原発の耐震強度については、採算性を悪化させるだけのコストを受け入れはしなかったのでしょう。要するに、社保庁と同じくケチったわけですね・・。
 今回の事態は、地震によって原発が大きな損傷を被った世界初のケースとなりました。また、他の先進国ではおよそありえないあまりにもお粗末な年金の管理体制や運用をめぐる問題は、この国の年金制度そのものが諸外国に比べていかに立ち遅れているかを白日のもとにさらけ出しました。では、日本のデータ・システム管理のノウハウ、あるいは核技術は、世界の水準に比べてそれほどまでに遅れているのでしょうか? もちろん、そうではありません。日本は決してIT後進国ではありませんし、通産省・電力業界の弁を信ずるならば、原子力の平和利用に関しては、世界のトップレベルの技術を有することになっているハズです。
 にもかかわらず、こうした問題が起きてしまったのはなぜでしょうか? 「年金は必ずもらえるから大丈夫」「地震が来ても原発は大丈夫」──専門家のお墨付きを得たお上のお達しが、ここまで空虚な響きを帯びるに至った理由は何なのでしょうか? その答えは、科学技術が決して価値観と無縁のものではありえないからです。すべては価値判断に基づく優先順位の問題に行き着くのです。
 諸外国の年金制度が日本よりはるかにマシなのは、それが国の根幹に関わる国民-国家間の信頼関係を左右する大問題だということを理解しているからでしょう。日本では最優先されるべき社会保障が多少のコストにさえ負けてしまったわけですが、もちろん、財政上の理由等もあるでしょうが、年金の統合を焦った背景には、国家による国民の管理・国民総背番号制への布石もあるでしょう。原発についても同様です。広範囲の地域住民と自然環境に対する放射能汚染を防止するという命題は最下位に位置付けられ、原発の建設コストがその上、最上位に来るのは原発推進の〝錦の御旗〟というわけです。さらにいえば、捕鯨と酷似した〝核コンプレックス〟が強力な原動力になっている面も否定できません。つまり、科学技術のレベル差ではなく、国民の生命や健康、環境よりも短絡的な経済的利益を、そして国体の護持を優先する傾向が、日本では諸外国に比べてより顕著であり、そこに日本特有の数々の社会問題が噴出している原因があるといえそうです。
 科学技術の内包するもう1つの問題は責任の所在です。今年のもう1つのトピックであるC型肝炎薬害を例にとってみましょう。調査団による調査結果にある「国には反省すべき点もあるが、責任があるとまでは言い切れない」という〝無責任な表現〟にそれは端的に表れています。「当時の医学では予見できなかった」というのが、こうした場合の決まり文句。血液製剤の投与時期等による〝線引き〟を、私たちは何らかの科学的根拠があるかのようについ受け止めがちですが、それは科学ではありません。いうまでもなく、必要予算の最小化、「他の薬害等の問題につながる〝悪しき先例〟を作らない」ための官僚の抵抗、省益という政治的要素が線を引く位置を決めるのです。それに対し、「発症タイプによってインターフェロン療法が効かない場合もあり、個々の患者に即した治療とその保障が求められる」という指摘も、歴とした医学的見地に基づく意見に違いありません。そして、そちらはやはり「患者・被害者の利益を優先する」という価値判断に基づいているわけです。原爆症や水俣病の認定基準なども、こうした線引きの非常にわかりやすい事例といえるでしょう。調査捕鯨の捕獲頭数がいかなる経緯で決まったのか、日本の鯨類学が反復作業的致死調査に著しく偏向しているのはなぜなのか──クジラにもすべての社会問題と共通する構図がはっきりと浮かび上がってきます。
 上記の事例をみてもわかるとおり、国や産業界がある種の事業を推し進めようとするとき、自らの立場を代弁するお抱えの専門家集団(いわゆる御用学者と呼ばれる人たち)に世論を誘導させようとするのは常套手段です。メディアに登場するそれらの〝権威〟は、リスクを隠蔽・矮小化する一方、非常に楽観的な予測をしばしば吹聴します。始めから結論ありきの模範解答を並べ立てて。一度既成事実化し、世間の関心が下がってしまえばこっちのもの。後々になって問題が露見したところで、もはや〝後の祭り〟というわけです。科学の旗印のもとに進めた結果が裏目に出た場合でも、国も、科学者も決して責任をとろうとはしません。多くの場合、とりようもないのですが。

 さて、捕鯨の所轄官庁である農水省・水産庁は、社保庁バッシングを対岸の火事と眺めていられる立場にあるのでしょうか? 日本の威信がかかっていたはずの原発の安全工学神話がまたもや崩れ去ったことに対し、「ニッポンの科学的捕鯨の絶対的な信頼性は原発のさらに上をいくんですよ」と胸を張るつもりなのでしょうか? 責任逃れにひた走る厚労省さえ「反省すべき点はあった」とまでは述べているのに対し、過去の乱獲に対する反省も明言できない日本の捕鯨産官学界に、南極の自然とクジラたちに対する重い責任を負う覚悟が果たしてあるのでしょうか??
 諫早の干拓事業をめぐる経緯や、緑のオーナー制度の破綻をみると、筆者は中央官庁の中でもとりわけヤバイのは農水省だとしか思えません。危機管理意識や消費者保護の視点が民間の生保に比べてさえ低いと指弾される社保庁ですが、まだマシなほうでしょう。それをいったら、農水省なんて悪徳業者の原野商法レベル・・。漁業者の信頼、国民の信頼をかくも裏切ってきた農水省に、国際世論を納得させ得る〝安全な捕鯨〟が可能であるなどとは、「納付者全員に年金を支給する」という日本政府の〝口約束〟と比べても信用が置けません。
 熱烈な〝反反捕鯨応援団〟以外の一般市民の方々は、科学の抱える諸問題を捕鯨問題に適用したら一体どういうことになるか、ぜひとも冷静に考察していただきたいと思います。そのとき、他の環境問題・社会問題といかに類似点が多いか、捕鯨推進の論理がいかに現実から乖離した突飛なものであるか、みなさんもきっと気づかれることでしょう──。

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